昭和43年01月11日 朝の御理解
信心の心得 「真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。」
この信心とは、真心と書いてある。真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。真心の道というのは、どういうような事を言うのか。真心の道とは、神様を拝むという事、というふうなことではないと思う。真心の道とは、真心の道と教祖はこうはっきり明言しておられます。真心の道とはどういうような道であろうか。しかもその真心の道と言うのはこのようにも有難い。
真心の道と言うのがこんなにも有り難いんだと言う事を自分自身が体得させて頂いてそれを末の末までも教え伝えよ。孫にも子にも子子孫孫までも教え伝えて行かなければならない。真心の道とはどう言う様な道を信心の道と言うのか。真心の道とはどう言う様な事であろうか。先日北野の中村さんが典樂会新年の典楽会の会食を致します。そいでまあ賑わおうと言う事で自分が三味線を弾かれますから三味線を持って来られました。
もともと大体私が昔三味線を弾きよりました。もう三味線なんか引かんぞ、もう十七八年前の話ですが、そいで自分でそう心に決めとりますから、中村さんが箱で作ったような三味線を弾きよんなさる事を知っておりますから私が、私の三味線をあげましょうというて、あげた三味線なんです。もう本当に十何年ぶりになつかしいものに会ったような気がしました。私その翌日だったでしょうか。
まだ持って帰ってございませんから、しばらくま弾かせて頂きましたら。私ですね一時間ばっかり少し弾きますと音色が出てくる。音が止まってしまっとった。その時でした。あの・・?の子供たちがその楽器が好きなものですから、豊美が私が調子を合わせた三味線をもっておりましたら、自分もその持ってからこういう事を言うのです。楽器のですね、調子がおうた楽器を扱う程、気持ちの良いことはない。
これはもう本当にそうです。もうあのきちっと調子のあった楽器をさわるだけでも気持ちがよい。不思議ですねえ。あの例えばこれは三味線が弾けなくても、琴が弾けなくても、きちっと調子がおうたのをちょっとさわってごらんなさい。もう何ともいえん音色が致します。これは正し調子が合うとらなければ駄目です。調子の合うておる、調子の合うておる楽器をね、さわるというだけでも気持ちがええ。
私共の心の調子というのはです、ね、あの、合っておる時、いや合わせようと一生懸命努めておる時、こんなにさわりのいいものはなかろうと思う、確かに。もうその人の調子の良い時、ね、心の調子が良い時なら、寄りかけられる。そばにつき良い。私は、そういう状態にならなければね、おかげもよりつかんと思う。心の調子が乱れておったんでは、おかげは寄りつかんです。
ね、ですから、私はあの、今日の御理解から頂きますと、信心の道とは、教祖は、それを真心の道とかえてあるが、なら真心の道とはどういうようなことであろうか。真心とは真の心と書いてある。ね、その真心の道と言うのはどういうような事であろうか。真心の道とは、私共の心がです、いわゆる乱調子じゃない。乱れた調子じゃあない。心が、例えて言うならば、信心なら信心にこう向かいきっておる時。
又は、一つの教えに本気で取り組んで、そのたとえば教えがです、親糸になり、ま、三味線で言うなら一の糸である。一の糸の調子が合わなければ二も三も合わせられない。ね、その皆さんが、たとえばこうやってお話を頂かれる。その話が土台になり、元になってです、その御教えに今日一日本気で添わして頂こうぞ、とう気持ちになる。それは、合わなくても合わせようと努めておる時、素晴らしいです。
月次祭の時に、あの楽器が四面なら四面の、現在月次祭は四面ですね。あの四面の琴が、親琴に合わせて調子を合わせて、ずっと調子を合わせておる、私は、あれは大変好きです。調子がカランコロンと合うて行く時、もうなんともいえんひとつのリズミカルなね、そのあの調子というものが、きちっとおうていく時のあの雰囲気とゆうものは、なんとも言えないです。ね、
ですからまず合わせようと務めなければならない。親糸が合うとそれに次の音もまた次の音も、これに合わせて行こうとするわけです。家族の中で一人が、本当に心の調子があっておりますとですね、それに皆が合わせるようになる。そこに家庭の和があり、素晴らしいおかげの頂ける雰囲気が生まれてくる。ですからまず中心がですね、あの調子を整えなければならんとゆう事なんです。
もう本当にですよ、もう調子のおうたその楽器はもう触るだけでも確かに気持がよい。こげん気持のいい事はないです。ね、ちょっと触る。ま、ちんとかしゃんとかいいます。もうその程度が素晴らしい。これは楽器を扱うことも、弾くこともできない人でもそうです。ましてそれが段々耳が肥えて参りまして、その調子が自分でもわかるようになりましたら、調子の合う時の気持ちというものは、何とも言えません。
私は真心の道とはね、私共がいつも、ね、ここに一つの教えなら教えとゆうものに基づい成すこと。そういう心で言うこと、そういうことでいわゆるそういう心で行う事がもう真心を持って行うなのであります。もう淋しゅうて淋しゅうてたまらん。腹が立って腹が立ってたまらん。それでどの様な素晴らしい事をしておっても、それは本当の事じゃないです。はあ、真心の道とはこれなんだ。
このこう言う素晴らしいね、真心真心にならして頂こうと調子を合わせていこうと。ね、その本気でその調子を合わせていこう、その教えに基づかせて頂こうとその願う心その心。たとえ合うていなくてもそれに合わせようとする、努力する心それを精進という。日々そこへ向かって精進さして頂く。ね、はあ真の道とはこれだと。私いまその事を頂きましてからね、いまその教典を開かして頂いたら頂くのはそれでした。
ちょっといっけんですね、あの今日私が言おうとしているその楽器というものは、その調子の合うた楽器とゆうのはもう触るだけ絵でも気持ちがいい。人間でもその心の調子の合うた人には、もうさわりよい、接近しよい。そしてその触った気持が素晴らしい。感じがいい。ね、その事だけを私、今日は皆さんに聞いて頂こうと思ったんです。けども教祖はここんところをどういうふうにあの、御説明下さるだろうかと思うて。
いま教典を聞かせて頂いたら「真心の道を、迷わず失わす末の末まで教え伝えよ」とゆう御教えを頂くのですよ。ああそれとなら、これとはどういうことだろうか、はあ私が今思うておること、ね、いま私が皆さんに聞いて頂いた事、それがそのまま真心の道なのだ。ね、それが真心なのだ。真の心と。真心とは私どもが素晴らしい調子の合うた心にです、ね、親神様の御心にです。
又は親先生の心にですまたは御教えにです、忠実にこれに合わせていこうとする心を真心とゆうのである。なるほどそうだなぁこれならば、いよいよおかげが受けられなということである。私は今日はひとつの大発見をした感じが致します。今のその御教えと、今日、私が言うておることをひとつにして、こうゆう感じで頂いたのは初めてです。はあ、信心とはこれなんだと。真心とはこれなんだ。
成程これならば、孫にも子にも伝えなければおらないのである。こう言う気持ちになってごらんて、もうそりゃ有難いとよと、信心とはこう言う心にならせてことを教えて頂くとよと。いやそういう本当の元調子を教えて頂くとよ。その元の調子に子にこちらが合わせて行く。合わなくても合わせてゆこう、合わせてゆこうと務める心がもう既に真心なのだ。我が心が神に向かうのをと仰るのだ。ね、
これが我が心が神に向かうのだ。信心とは和賀心が神に向こうのが信心というのじゃ、とも教えておられますよね。どうぞ皆さんひとつあの心の調子をいつも合わせようと精進しなければいけません。それにはどこに合わせるか、ね、これは私がなら昨日も申しますように豊かにならして頂こう、今年こそ愈々所謂大きな豊かな心を?して頂こうと。それを具体的に言うなら、今日の御教えに本気で取り組ませて頂こう。
もう豊かにならないはずがない。日々は今日の御教えに取り組ませて頂こうと、そこに調子を合わせようと一生懸命精進する。そこに例えば一がおうた二がおうた三がおうたとこう調子がおうてゆく時です、なんともいえん。それは三味線を弾け無い人でも三味線を持っただけでもさわっただけでも、こんなに気持あが良いものはないと言う様に感じさせられるものなのです。それがそのまま真心の道であるとゆう事です。
どうぞ。